1度で良いから白いご飯を腹一杯食べてみたい・・・【学習塾】

「1度で良いから白いご飯を腹一杯食べてみたい!」
これは私の父が中学生くらいの時に毎日思っていたことです。

こんばんは。KOSHIN学院塾長の瀬下です。

私の父は中学生時に戦争が激しくなり、新潟に疎開していました。疎開先でもろくな食事は与えられず毎日ひもじい思いをしてました。

ようやく戦争が終わり横浜に戻ってきてからは、もっと酷い生活が待っていました。

終戦直後の横浜は一面焼け野原。母親(私の祖母)と幼い弟にご飯を食べさせるために、東神奈川にある「進駐軍の基地」(アメリカ軍の基地)で重たい荷物運びなどをオトナに混ざって働いていました。

もちろん住んでいた自宅も焼けてなくなり、やむを得ず東横線のガードの下にブリキを置いただけの仮住まい生活。ここなら雨だけはしのぐことができますから。

そのブリキ板も運んでいる途中にオトナに脅かされて取られてしまったことも何度もありました。

食べるものなどなく、もちろん食器も何もなくて、米兵のヘルメットを鍋の代わりにして、タンポポの葉っぱを茹でて食べました。もちろんそんなものが喉を通るはずもなく。

まさに「ギブミーチョコレート!」な生活をしていました。
※知らないかな?こんな言葉。

それでも苦労して働いて、弟が大学へ行く費用を出してあげました。

そんな父でしたが、昨年84年の生涯をを閉じました。去年の今頃は最後のお別れをしていた時期でもありました。

最後のお別れに、在りし日の写真を整理していたのですが、父の子どもの頃の写真が一枚もありません。全部戦争で焼けてしまったのです。

そんな時代でしたから

私が生まれたのは戦争が終わった13年後の「昭和33年」です。ですので戦争を直接経験したことはありません。さすがに敗戦のショックみたいなものは、もうありませんでした。

しかし、中学生くらいのお兄さんが鶴見駅の前でバスから降りてくる人に「お金をください」と乞食(こじき)みたいなことをしていたのを鮮明に覚えています。

私は両親のおかげでひもじい思いをしたことはありませんが、まだ世の中にはひもじい思いをしている人がたくさんいる時代でした。

やがて「高度成長時代」に突入し、人々は「学歴争い」をし始めました。

勉強して高学歴にならないと、会社に勤めてもエライ人にはなれないよ!

そう言われながら私は育ちました。

そんな両親の元で育ちましたらから「学校を休みたい!」なんて言ったら、そりゃもうこっぴどく叱られて、ビンタの1~2発は覚悟しなければなりませんでした。

そんな時代でしたから「塾に行かせてもらえる」なんて、本当に贅沢なことでした。

1度だけ泣いて喚いて塾をさぼったことがあります。それは・・・
あの巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんの「引退試合」の日でした。それだけは見なければ死んでしまうと思いました。今みたいに録画しておいて、あとで見られる時代じゃありませんでしたから。

でも私が塾をさぼったのは、その日1度だけです。

自分は成績が悪いということを自覚していましたから、塾の先生に見放されたら僕はおわってしまうと思っていました。

今の日本は幸せになりすぎたのか?

もちろん貧乏の極みみたいな生活に戻りたいとは思いませんが、ただあの時代は「モノ」もなかったし、「カネ」もなかったので、もっと人間と人間のつながりが強かったのです。

近所の人みんなで協力しないと生きていけなかった。

私の父のように「1度で良いから白ご飯を腹一杯食べてみたい!」なんて思ってた人からしてみれば、「不登校」だの「塾に行きたくない」だのなんて、ただのワガママ贅沢病にしか見えないでしょう。

今は「食べる物がなくてひもじい思いをしている」中学生はとても少ないと思います。

ましてやKOSHIN学院(塾)に通ってくる生徒で、食べる物がなくて苦しんでいるなんていう子はいません。

ゲームやスマホが欲しいと言えば、すぐに買ってもらえる生徒がとても多いです。

ちょっと叱られると「ママ~!」と言っちゃう男の子たち・・・。

本当にこの国はこれで良いのでしょうか?

と思うのは私だけなのか・・・・。

それではまた明日! See you!
【KOSHIN学院は神奈川県平塚市田村にある、お腹が空いてる生徒に優しい学習塾です!】

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この記事を書いた人

瀬下淳志のアバター 瀬下淳志 KOSHIN学院塾長

神奈川県平塚市田村にある高校受験専門の集団個別指導の学習塾です。お勉強が苦手でもお断りしませんが『やる気』は大いに気にしています。